第126号・平成19年9月10日発行
発行者 : 田野畑・山地酪農牛乳
住所  : 岩手県下閉伊郡田野畑村蝦夷森161-3
編集・文責 : 吉塚公雄  
tel/fax  0194(34)2725
Eメール:  yoshizuka@yamachi.jp(吉塚農場)
       yamati@juno.ocn.ne.jp (熊谷農場)
  ホームページ http://yamachi.jp/


               
 大変お天気が心配されましたが9月1日(土)に開催されました第11回牧山交流会は、多くの方々のご参集を得て盛大に開催されました。花田陽子会長さんの乾杯のご発声で、開拓からの我々の思いを代弁頂きまして感激致しましたが、顔を出したお日様の祝福を得ながら元気に乾杯し歓談となりました。以前は森林だったこの美しい牧山ですが、牛達の生活の場であり、生産の場でもあるのです。絵画のように人の心を癒してくれます。

 普段は広く感じている牧山入口ですが、次々に来訪する車に、とても狭く感じられました。兎に角、悪天が予想される中、雨が上がってお日様が顔を出し、ホット胸をなで下ろしました。沢山の方々にご参集頂き、本当に有難く感謝申し上げます。美しく成長した牧山にご一緒でき、嬉しく歓談できました。

  新鮮な山海の美味を沢山ご堪能して頂きまして、歓談に花が咲きました。乳牛(特にホルスタイン)のこのような急傾斜地放牧は、日本の常識を大きく外れており、専門家ほど見て頂かなければとても信じてもらえない光景なのです。しかし私たちは同じ人間でも訓練を重ねる事でエベレストでも登頂できるように、猶原恭爾博士のご指導から、乳牛でも仔牛の時からの訓練で当然、牧山での昼夜放牧が可能だと考えました。試行錯誤に失敗の連続でしたが、何とか急傾斜地への順応に成功することができました。そこまでするのは自前の山味牛乳に思いがあるからなのです。急傾斜の山地が美味しい安全牛乳の大産地になる?

 地元、甲地鹿踊り(かっちししおどり)保存会の方々の友情出演を得て、交流会を盛り上げて頂きました。普通の鹿踊りと違い、かなり激しいたち回りの迫力が伝わって参りました。物語性があり雌ジシの獲得を争う牡ジシの争いがテーマです。人でも時々ありますが、争いは野生の習性?乳牛たちもボスの座を争う時は、そこまでやるかと言うほどの迫力満点の争いをして見せます。


      シリーズ56

                    

このシリーズは、私が学生時代にご指導頂いた故猶原恭爾(なおはらきょうじ)博士に、山地酪農家になる者はこれを読みなさいと報徳全書を示されました。私がサラリーマン家庭に育ったにも拘らず、実際の入植を決心させてくれたきっかけとなった本でした。生き方の問題をいろいろな例を出して考えさせられましたが、人間に生まれた以上、人として忘れてはならないものが沢山あったと思います。「まき」の紙面は限られており、どこまで求められるか分かりませんが、シリーズにして素晴らしい内容を少しずつ考えて行きたいと思います。どうぞよろしく。又、一層言葉を簡略にすることに努めます。  志ろがねの牧 吉塚 公雄

                                           
 報徳記 巻五  一、細川候の分度を定め本家家の道理を説く つづき4

 小田原の藩士二宮と言う人物が、国家再興の道を行い、その成功例を知る者があった。人格は篤実至誠であって、徳行は素晴しいものである。遠くの為ご指導頂けないでいたが、玄順に野州延生(のぶ)の地蔵に代参させたついでに、二宮のもとに挨拶させ、我等の苦心の実情を述べ、改政の道を尋ねさせたところ、彼は深く艱難の事情を察して再興安堵の基本を立て、数巻の書類を贈り来たった。読めば読むほどにまつりごとをなすに的確の良法であって、深く感ずるところである。しかしながらこの大業をなすには、家臣一同の力によらなければ不可能である。一同の閲覧を待ってこの道の可否を決するつもりである。またほかに国家再興の良策があればすみやかに告げよ。」(125号からのカッコ)
  群臣は驚き、疑い、葛藤を持って熟覧したところ、国家再興の道がりょう然としている。「わが君には国事を憂うこと深く、ついに良法を得られましたことは、実に一国上下大幸です。すみやかな実施をお願い致します。」と言上。「皆の申すは我等の心にかなった。しからば異議はないか。退いて後にとやかく申しては相成らぬぞ。」と戒めた。群臣一同誓約した。
  ここにおいて主君は本家におもむき、旧来の恩義を謝して親睦の道を尽くし、家老以下に先生の至教を示して、本家に行って懇切の情を表し、玄順をして改政の書類を本家へ出して、つぶさに意味を説明させた。本家の細川候は大いに喜ばれ、「分家が代々の疎意を悔いて信義を通し、非常の改革良法を行って上下の憂いを除こうとしておる。無情の幸いである。二宮は縁故もない身でこのように分家のために誠意を尽くしておる。本家の当方として、義を尽くさずにおられようか。良法も多額の用財がなくてはできまい。余がこれを補助しよう。」と言うことになり、積年の恨みは消え、大いに親睦の道が開け、両君と一藩の歓喜は限りなかった。みな先生の知恵の深さと感化の偉大さに感嘆した。

  “筆者(富田高慶)が考えるに、先生が父子兄弟の道を論ぜられること、実に偉大である。先生の一言によって、本家分家二百有余年の憤怒が一時に見事に氷解し、親睦してしまった。その言葉は正大で、深く人倫の義に徹しているので、これを誰しも感嘆し納得せざるを得ないのである。後世いやしくもこれに鑑みるとき、父子兄弟の愛はますます厚くなり、利を見て親しみを忘れる事はなくなるであろう。実に一言にして天下の兄弟たる者の道が定まった。至高の人でなくてどうして出来ようか。しかしながら、筆者は身近に見聞したものではなく、要略を伝え聞いただけであるから、恐らくはその趣旨を十分尽くしていない点があるであろうと思われる。”   一は終り。




 【イジメられた中学時代】                                H19年 9月10日 (月)
                                                         吉塚公太郎
 平成7年に中学校に入学しました。全校で220人ぐらいの学校です。
その中の約70人が僕の同学年でした。中学に入ってからは、家から中学校まで16kmもあったので、バスで通いました。車酔いが激しかったので慣れるまでに時間が掛かりました。
 中学に入った年はテレビにも良く出ていましたので、テレビを見た先生や同級生が、「テレビ見たよ!良い家族だね。すごいね。」と言ってくれました。6月からは、牧場内でも忙しくなり、牧草の収穫(サイロ詰め)が始まると、良く学校を早退したり時には、休んで牧場の仕事を手伝いました。次の日に学校に行くと同級生に、「何、学校を休んでるんだよ。さぼるな!」と言われたりもしました。いじめは、ある時、突然やってきました。机の中にある教科書を外に投げられたり、ノートに落書きをされたり、ボールペンや鉛筆などを折られたりしました。あと、何もしていないのに同級生が、「公太郎が、・・君の悪口を言っていたぞ」と言われて、その人に便所でお腹をパンチされたり顔を殴られたりと何度かありました。給食の時間になり、準備をしている時にカレーを頭に掛けられたりもしました。我慢できなくなって、親に学校に行きたくないと言った事があります。その時に父は言いました。お前が何をされても笑顔を周りに向けなさい。いつか、信じて貰える日が来るから、その時まで頑張れと言われました。僕は、心に決めました。周りが嫌がってやれない事を、僕が自分から進んでやって行こうと思いました。学校の掃除の時も周りが嫌う作業を進んでやりましたし、クラスの学級会長をやった時は、クラスをうまくまとめられず、返ってやられたりしました。
 でも、毎日笑顔を向けました。ある時、同級生が「公太郎が・・君の事をデブっていってたぞ!」と言いました。すると、その人は「公太郎はそんな事を言う人じゃないよ。」と言ってくれました。その時、その言葉が嬉しくてたまりませんでした。その時、親父を信じて良かったと思いました。本当に親父に「有難う。」でした。あの時、学校を休んでいたら、弱い心のまま今 を迎えていたのかなと思いました。 8月30日志ろがねの牧、オニクルミの下で食む


                 
  【何よりも大切な体】                                      吉塚恭次

  高校を卒業し、第2牧場開拓を目標に2年間実習に行って来ました。
  そして実習が終り“志ろがねの牧”で家族と再会しました。勿論、帰って来たその年のうちに候補地に入って皆で開拓をする予定であり、私はこの時ものすごく張りきっていました。それに向けて、できる事を何でもしよう、それから1日でも早くあの山を日本シバに覆われた山にしたいという気持ちで一杯でした。
  まず、山を放牧地として活用する為には、柵が必要になります。うちの放牧地にある栗の立ち木を切り倒しそれで牧柵を作っていました。一日一本でも多く作ると言う気持ちで、時間の合間に山へ通いました。日々作っているうちに、牧柵置場は、牧柵の山になりました。
  そして昨年7月中旬新たに木を切り倒しました。時計を見たときもう夕方の3時50分位になっていました。区切りのいい所ではありましたが、時間的に「あと30分はできるなあ〜」この30分でどこまで出来るかと思うとついついやりたくなってしまいました。そして枝を払い始めて5分位した時、傾斜で足を滑らせてチェーンソーの刃が誤って自分の足首にたたくようにあたったのでした。なんだか足の感覚がおかしいと思って切れたズボンをめくってみるとガッポリ切れていました。私はビックリして家に戻り救急車で運ばれ病院で手当てをしてもらいました。 20針近く縫う大怪我は初めてでした。
  そして1ヶ月間退屈な時間を過ごすことになりました。仕事をしたくてもこの時は、布団にこもっている時間が長かったのでした。でも毎日毎日布団の中であお向けになって考えていました。「退屈だなあ」と言う気持ちは勿論ありましたが、事故の事を思い出しては、「こんな状態だけどこれでもかなり守られたんだな、あの時場合によっては命を落としていてもおかしくなかった事故だと思うし、よくアキレス腱をかすった程度で済んだ」と思っています。いつ、何が起こるかわからないという現実の中で私たちが生きていること、そして第二牧場開拓をしようとしていることに自然の恐ろしさを感じ、身を引き締めることが出来ました。そして今自分が、当たり前に歩けることに心から感謝しています。

 

この夏も沢山の来訪者がありました。8月4日は新潟県の佐渡島から、地域に根差した産品での地域興しに静かなる闘志を燃やす若夫婦が、見学にお出でになりました。お役に立てれば・・・。頑張れ若者!!

 

 


 8月24日には、明るい農大生が来てくれて乾草の給与を孫の仁美とやりましたが、アブと温度が敵でした。奥の林の中から出て来ません。強引に追い出して食べさせました。夜涼しくなるので、歩き廻って食ってくれています。

 

 

 


                 村の宿泊施設への誤解とご案内
 交流会の時、宿泊施設が多数あるにも拘らず、近隣の市町村でのご宿泊が多いようにお見受けしました。お聞きしたところ、施設が整っていないのではないか、食事が不安。との声をお聞きしました。皆さん、今の時代それでは営業許可も出ませんよ。
  特に田野畑村の旅館や民宿は、心温まるオモテナシで定評があります。是非一度ご宿泊頂きたいと思います。湾内ではなく厳しい太平洋だからこその新鮮な美味しい魚介類もご堪能頂きたいと存じます。今回特に誤解を多く感じましたので、遅ればせながらご案内させて頂きました。