第124号・平成19年7月3日発行
発行者 : 田野畑・山地酪農牛乳
住所  : 岩手県下閉伊郡田野畑村蝦夷森161-3
編集・文責 : 吉塚公雄  
tel/fax  0194(34)2725
Eメール:  yoshizuka@yamachi.jp(吉塚農場)
       yamati@juno.ocn.ne.jp (熊谷農場)
  ホームページ http://yamachi.jp/


              
  第8回盛岡地区交流会・皆様に応援を受ける中、盛会裏に終了

  7月1日に開かれました、盛岡地区の交流会も、楽しく飲み・歓談して、まだと思っている内に、アッと言う間に終わってしまいました。皆様方に万障お繰り合わせ頂いて、多数のご参加を頂きました事に、心よりお礼申し上げたいと思います。
  盛岡市に家族全員で行く機会など、他にはありませんし、熊谷の車にも分乗しないと行けません。皆で交流会と言う目的のために、乗り合わせての道行きは、これもまた貴重な時間です。
  花田さんご夫妻にはいつもご協力頂きまして、今回も熱いメッセージを頂戴致しました。ご参加下さった方々からも自己紹介を頂きましたが、改めて有難さが込み上げました。
  苦しい時代が長かったからこそ、ありがたさが身に染みるとも言えるかも知れませんが、そうであれば苦しみもマンザラ悪くはないと思います。
  日本に数軒しかない山地酪農家ですが、山地酪農だけでは到底存在すら危ぶまれた時、プライベートブランドの田野畑山地酪農牛乳が誕生してくれて、皆様方から直接支援が受けられるようになったのでした。そのお陰で何とか今も営農も牛乳屋もやっていられるのです。
  入植から十年間のランプ生活や、不備な自炊で栄養失調になり掛かったこと等、ついこの間の事のように感じます。
  反省する余裕すらなく、ただメチャクチャに進もうとして来たのでしたが、気が付けば15年目には、振り返った牧山に牛が美味そうにシバを食むのが目に入りました。前進しか考えない日々の連続の中で、初めて振り返った時だったかも知れません。嬉しさに鳥肌が立ちました。感動に立ちっぱなして、胸が一杯で、しばらく眺めておりましたが、「これがやりたかったのだ!したかった様になっているじゃん。・・!」
  バラセンを張って、木を切り、シバを植えて、刈払う。牧道が雨にやられないように、まとまった雨の度に水切りに行き、何度も何度も壊されて悔しい思いもしました。「土が流されたら百姓は出来ぬ。」色々苦しかったけど、シバ主体の草地になっているのでした。木になろうとする大地の力を、草にして発揮させる、これが山地酪農です。
  この妙味を味わったら一人前の山地酪農家と言って良いと思います。ただ人として「お金」向きではなく、「豊かさ」向きで世の中や地域に貢献する姿勢を合わせて育てて欲しいと思います。
  毎回会場を提供して下さっている、産直「ちいさな野菜畑」の小島様に心より感謝致します。
  次回は牧山交流会(くがねの牧)です


      シリーズ54       

 このシリーズは、私が学生時代にご指導頂いた故猶原恭爾(なおはらきょうじ)博士に、山地酪農家になる者はこれを読みなさいと報徳全書を示されました。私がサラリーマン家庭に育ったにも拘らず、実際の入植を決心させてくれたきっかけとなった本でした。生き方の問題をいろいろな例を出して考えさせられましたが、人間に生まれた以上、人として忘れてはならないものが沢山あったと思います。「まき」の紙面は限られており、どこまで求められるか分かりませんが、シリーズにして素晴らしい内容を少しずつ考えて行きたいと思います。どうぞよろしく。又、一層言葉を簡略にすることに努めます。  志ろがねの牧 吉塚 公雄

                                           
 報徳記 巻五  一、細川候の分度を定め本家家の道理を説く つづき2
 先生は嘆息(ため息)して言った。「はてさて、何とはなはだしい心得違いであろう。三斉君の大恩を察せずに、ただひたすら禄(給料)の減少を恨みに思うとは、恩に報いるに恨みをもってするものではないか。」中村は言った。「十万石を失って、どこに大恩があるのですか。」先生は大きく嘆息して次のように教えた。「あなたには分かるまいが、細川三斉君は天下の英傑(えいけつ)であって、仁慈(じんじ)に厚かった。天下大乱の時に当って、敵には軍略を尽くし、臣下は子のごとく愛し、民も兵もその命令に従うこと、父母に従うようであった。大国を領してついに他国の恨みを受けず、家康公を補佐して天下の乱れを治め、太平を開かれた。これを傑出の名将と言わないで何としよう。そしてその志は天下万世の太平にあって、親族の狭い愛着にあったのではない。故に子弟が誠に賢明で天下の為になる人物であれば、骨肉の親族とて遠慮はせず、これを推薦して国家の補佐としたであろう。また逆に天下の為にならない事を知れば、たとい弟でも当然のけたであろう。そこにどうして情を用いようか。心が公事にあって私事にないのは、忠の大なるものではないか。興元君の賢否は良く分からないけれども、幼少の頃から父兄に従わず、僧となって道を遂げなかったことは、父兄の心にそむいており、孝の道が万全であったとは言い難いであろう。ただ僧ではあってもたった一人で敵城に乗り込み、勇猛果敢に戦果を上げたことは、世にも稀なる大勇者とも思えるが、謹慎・仁慈の徳があったなら、実に世に稀な名君であろう。しかしその進退を見ると、勇敢ではあるが仁者(人格者)ではない。三斉君の度量で観察すれば、はなはだ危険と見られたのももっともではないか。それに一度の軍功に十万石を賜うことは、賞としてすこぶる行き過ぎのように思われる。家康公がそれをご存知なかったはずはない。それは三斉君の実弟であればこそ、功に過ぎる賞を与えようとされたのであって、これも三斉君への報賞の意味ではなかったか。
  もしも恩賞が功績に過ぎる時は、三河の国以来の忠臣義士として、家康公七十二度の危戦に従い、粉骨の労を尽くした諸侯の恩賞を施す余地がなくなり、また賞の不公平により人心に不平を生じたなら天下の一大事ではないか。また興元君が過ぎた賞を得る時、必ず驕慢(きょうまん)(おごりたかぶる)の心を生ずる。一たん驕慢心を生じたなら、家を滅ぼすような禍(わざわい)が必ず起きるものである。してみれば賞の多いのは幸いではなくて不幸ではないか。故に三斉君は,一に天下を思い、二には興元君が終りをまっとう出来るようにと配慮されて、過大の賞を辞退して相当の賞を受けさせたのである。その遠大な考慮は衆人の及ぶところではなく、深意のほどは計り知れぬくらいである。そこで本家分家ともに今に至るまで連綿として栄えているのは、実に三斉君の深慮(しんりょ)の大恩によるのではないか。
  後年に至って、深慮を知らず、いたずらに禄の減少を恨むとは何事であるか。一時の手柄(てがら)によって一万石余を賜ることさえ過ぎたものではないか。興元君がこの道理を解(げ)せずに恨んだりしたであろうか。これは全く後世の凡情によって怨恨(えんこん)不平(ふへい)を生じたのである。この本末(ほんまつ)転倒(てんとう)によりこのような衰廃(すいはい)の憂(うれ)いも生じたのに違いない。」続く

 



(牛舎への道路が変わった。)           平成19年 6月12日(火)

  この春から、農場の放牧地と搾乳牛舎との通路を変更しました。ずーと前から、家の前を牛が通るのは、家の前が糞だらけになるのでダメだと思っていましたが、大きな変化に牛は弱く、慣れるまでは結構な労力を要することが分かっていましたので、なかなか出来ませんでした。
最近になって、お客様からご指摘を受けて決心しました。電気牧柵を取り入れたことで誘導路を作りやすい事と、息子たちが動けることもあって、思い切って牧道の変更を決行致しました。牛たちはいつもと違う出口へ追われるので、パニクッテいましたが、数日の事で何とか慣れてくれました。まだ一人で出来るほどではありませんが、段々に出来る様になるでしょう。
  天候が安定して、草が成長を見せ始めたら、暑さの為に腹が減っていても木陰に入ってしまい、逆に日中は余り歩かなくなりました。草があるのに仕方がなく補食して、乳量が多い牛を中心に食べさせています。一食抜きは牛には拷問です。でも夜になると涼しいので歩き廻ります。ですから、朝は牧山で一番奥の高い場所まで迎えに行かなければなりません。適度の運動と思い、また牧山の状態を確認する意味でも、自分の足で歩く事に、意味を感じています。それにしても後ろに行って声を荒げないとビクともしません。遠くから呼びながら行くのに、そして判っているのに・・・?

(ビーフジャーキーが出来ました。一枚380円です。)   平成19年6月26日(火)

 先日13才のミンミンを紫波町の岩畜工場に送りました。従ってビーフジャーキーが出来ました。最後まで人に尽くす家畜道です。
  でもこうしてビーフジャーキーにするからこそ人様の口に入りますが、そうでなければ、動物園かペットフードです。それでも構いませんが、家畜代がただ同様にたたかれて、情けない思いをしながら売るようになるのです。
  自分で製品にして売る為に、ビーフジャーキーに加工してもらい、それなりに道を付ければ、安全に関してはこの上ない肉ですから、自信を持ってお届けできるのです。そして安い様でも、たたかれて売るよりはどんなに良いか。
  まして少し硬くても、美味しいと言われているのですから嬉しい限りです。自分で食べてもクセになりますが、そういう物にして売らなければウソだと思います。
  実はペットフードショップからも、安全な薬を使っていない肉や骨の問い合わせがありました。値段的にはまあ合うようですが、心境として穏やかではありません。だって人の役に立てるのに、何でペット?とどうしても思ってしまいます。でも今やペットは人間と同格なのだそうですヨ。飼い主は自然で安全な食べ物なら、少々高価でも買うのだそうです。
  オラホのガキはペット以下だな?と思いながら・・・?でもペットが相手なら、保健所の許可は要らないし、やりやすいのは確かです。ペット用安全食品として、骨まで売るようにしようかとも思います・・・? 




  「こどもの時から」               平成19年 7月2日(月)
                                                       吉塚公太郎
  昭和57年9月8日に生まれた当時は本当にこれで良かったのかと、何度も首をかしげながら考えました。
まだ、僕が母のお腹の中にいた当時の事も良く覚えています。僕は母のお腹の中で、父と母の喧嘩を毎日のように聞いていました。喧嘩の原因は、お金がない事や、牛が思い通りに育ってくれない事、やりたい仕事が思い通りにはかどらない事など、その他にも色々あったそうです。
  僕は、お腹の中で弟達と会議を開きました。(誰が先に出ようか?今は、大変そうだしなあ。出来れば、山地酪農牛乳が出来てうまく行きそうなのを確認できてから生まれたいなあと皆で思いました。)でも、会議の結果は僕が長男に選ばれました。生まれた時に、初めて父と母に会いました。その時に、父と母は僕の顔を見て、なんとも言えない笑顔で、元気に生まれて来てくれて有難うと迎えてくれました。(弟達が生まれた時に父と母を見て普段の笑顔とは違う笑顔でした。必ず言う事は、良く元気に生まれてきてくれたねと赤ちゃんに言います。)

  父は、結構厳しかったです。人に嫌な思いをさせてしまった時、挨拶が出来ない時、人に良くして頂いた時に感謝の気持ちを言えなかった時、物を大切に出来ない時、そして、特に怒られたのは、食べ物を粗末にした時でした。
  僕が小さい頃に良く父に言われた事は、「よその国では、食べ物がない国があり、飢えて死んでいる人が沢山いるんだよ。俺は、食べ物を粗末にする奴は許せない気持ちになるよ。日本は沢山食べ物があるけど、嫌いな物が有るから残すという人が多すぎる。せめて家の子は大切にして欲しい。米粒一粒でも無駄にしたらいけないよ。」と何度か言われました。
  弟達も言われていますが、最近では親父も衰えたのか、末っ子の壮太が何か悪い事をしてもあまり怒らなくなってしまいました。今では僕が怒っています。


                 

 「北海道で学ぶ〜これが肉体労働〜」             H19年6月30日(土)
                                                         吉塚 恭次
  私は、3年前に地元の田野畑校を卒業しました。そして向う先は勿論「北海道」ロック歌手に会いに行ったわけではありません。
  山地酪農に向け、酪農実習のスタートを切りました。ここは旭川市「斉藤牧場」私の実家と似たように「山地酪農」をやっていたので興味を持ち、ここでの実習を決めたのでした。牛の総頭数約130頭という、家とは比べ物にならない大きい牧場でした。斉藤さんにお目にかかり「田野畑から来ました吉塚恭次です、どんな厳しい事でもやらせて下さい。宜しくお願いします。」気合が入っていました。体力には自信のある私が最初に取り掛かった仕事は、130頭の牛糞さらいでした。今の時代これだけの頭数を飼っていたら、スイッチ1つで処理してくれる「バーンクリーナー」があってもいい気がしますが、ここはスコップで一輪車に乗せ堆肥場まで持って行くという、すごくハードな作業です。
  私は「これが今年の実習だ!」と言って、1時間以上掛かってやりました。こんな大変な作業は初めてかもしれません。何をやっても手の掛かる仕事でしたが、とことんお金を掛けないでやる所に感心しました。
  朝食は10時〜11時、夕食は21時〜22時で1日2食でした。毎日ほとんど休む事無く働きました。私は、余りの辛さに嫌になることが何度もありました。そんな気持ちになったとき、私はいつも将来の夢である「第2牧場開拓」の事を考えるのでした。「こんな事で辛いなんて思っていたら第2牧場なんか無理だ、クソー!」と思っては、やる気を取り戻し再びスコップを握る自分。
   そんな私も実習の終りが近づくにつれ「もう少しで家族に会える」と言う気持ちが出てくるようになって来ました。実習が終り充実しガッチリとした体と満足感で家族と再会することが出来ました。無事に帰ってくることができ、1年間私を育てて下さった斉藤さん、見守って下さった家族達には心から感謝しています。