くがねの牧通信 2007年4月 

  奇跡を願ってA

 皆様、こんにちは! 関東以南では桜が満開だと言うのに、こちらはしんしんと雪が降り積もったりしています。まさに、冬に逆戻りです。
今年は暖冬だったので、いつもより春の作業を早めに始めなくてはと思っていたのですが、もう少しゆっくり出来そうです。 何事も前向きな私です(笑)。
  今月の通信は、先月に続き、初産牛の難産の状況、またその後についてです。いつも以上に力が入り、空回りしている部分があるかと思いますが、どうかご了承下さい。少しでもお楽しみ頂ければ、幸いです。


2月23日(金曜日)。

  子牛の両足にロープを掛け、引っ張り始めてから、10分以上が経過した。始めは余裕があった気持ちも、余り進展がない展開に、次第に焦りへと変っていた。親牛は両足を伸ばし、痛みと疲労からすっかり伸びてしまっている。早くこの状態から開放させてやらなくては、子牛どころか親牛までもが、まいってしまう。
  「うー、うー、うー。」それでも最後の力を振りしぼって、必死に力み続ける親牛。ここまで来ると、もはや猶予はない。
  トミエさんとお袋と妻までロープを持ち、5人総がかりで引っ張った。やっとの思いで、両足の次にピンクの鼻先が見え、そして大きな頭が顔を出した。
  「よし、もう少しだよ、はい、みんな頑張って。」
と、トミエさんが檄を飛ばす。頭さえ出れば、後は一気に引っ張り出すだけである。状況が進展した事で、力が蘇る。
  「せーの、せーの。」
掛け声のリズムもあがり、ズルズルと胴体が体外に見えてきた。後、もう少し。誰もがそう思った途端、子牛の腰骨が母親の産道に引っ掛かってしまい、ピッタリと吸い付いたように動かなくなったのである。何度力を入れ直して引っ張っても動かない。まずい・・・。
  女性陣(特にお袋)は、自分のお産とかぶるのだろうか、「早く、早く。」と、パニック状態。
  「焦るな、焦るな、揺すって、揺すって。」
  源さんの指示が飛ぶ。はやる気持ちを必死に抑え、子牛の角度を変えながら、腰骨が外れる場所を探す。そして、今度こそ本当にやっとの思いで、引っ張り出したのだった。

  しかし、それぞれがホッとしたのも束の間、またもや現場には緊張がはしった。産まれたばかりの子牛は、口から長い舌をべろっと出したまま、呼吸を開始する様子がない。
  「子牛はもしかしたらもう、駄目かもしれないぞ。」
と、源さんが言った言葉が思い出される。すぐに冷水を用意し、ショック与える為、頭にかけたり、胎膜などで汚れている口や鼻の周りをきれいに拭き取ったりと、出来る限りの処置を施したのだが、ぐたっと横になった大きな子牛は、時々ぴくぴくと足が少し動くばかりだった。
「ほれ、どうした、産まれたばかりでしょ、頑張れ、頑張れ。」
と、トミエさんとお袋が必死に心臓マッサージを繰り返すのだった。源さんは親牛の処置を、私と妻はその光景を呆然と眺めるしかなかった。

  久しぶりの死産だった。


  2月25日夜。

 私は横浜のランドマークタワーから、ワイングラスを片手に、眼下に広がる素晴らしい夜景を眺めていた。 結婚式も架橋に入り、いよいよ感動のクライマックスである。
  その前に妻に電話を入れる。
目の前の夜景を妻と共に楽しみたいと言う気持ちもあったが、その後のあの親牛の状態が気になっていた。
  私が結婚式のため家を出たのが、その難産があった翌日の昼だった。やはりあれだけの難産は、母体に相当なダメージを与えたようで、お産後、その親牛は立ち上がる事が出来なかった。しかも、他の牛を牛舎から放牧に出した際、我々の隙を見て、あろうことか外へ這い出してしまったのである。
  その後、獣医さんが診察し、体力回復の点滴を打ってもらった。獣医さんが言うには「このまま外に置いたほうが、地面が土で踏ん張りが利くからいいよ。」と、言う事だった。
  しかし、季節は冬。いくら暖冬でも、肌に吹き付ける風は冷たい。母体の周りに藁を敷き詰め、背中には毛布をかけた。その日の昼、後ろ指を引かれる思いで、出掛けようとしている私に、お袋がひと声掛けてくれた。「大丈夫、よく餌も食べているから、帰ってきたときには立っているよ。後はお父さんに任せなさい。」いつもお袋とは喧嘩ばかりだが、たまにはいい事を言うものだ。後はベテランに任せよう。心が少し軽くなったのだった。
始めは盛り上がった披露宴中の妻との電話でも、初産牛の話になるとやはりテンションが下がってしまう。どうやら、期待とは裏腹にまだ立つ事が出来ないようだ。「このままだと、27日に屠場に積んでもらうみたい。もう農協には電話したみたいだよ。」との、妻の沈んだその言葉に、私は思わずうつむいてしまった。我が家では珍しく、大人しい扱いやすい牛だったのに・・・。本当に悔やまれてならない。その前に立つことを祈るしかなかった。

  3月27日、運命の火曜日の早朝、盛岡駅に夜行バスで到着した私は、そのまま吉塚兄弟と合流し、盛岡市内の牛乳配達をするという強行スケジュールをこなた。と言っても助手席で、うとうと・・・。かなり相棒には迷惑を掛けたのだった。夜10時、久しぶりに家に帰ってきたのだが、もちろん第一声は初産牛のことである。
 「どうした、初産は立った。」
 「いや、まだ・・。」
お袋が答えた。もはや出荷されたのかと、うな垂れた私にお袋は続けた。 「積んでもらうのは、もう少し伸ばした。食欲もあるし、獣医さんもまだ諦めるには早いって言うから。」
  「そうが。」
  少し安堵した私は、早速初産牛の様子見に言った。牛舎の入り口の横に、大きなケヤキの木がある。その横に彼女は座っていた。周りには藁が大量にひき詰められ、体には毛布が掛けてある。しかし、天候は雪。風と共に小さな雪の粒が彼女の横顔に容赦なく吹き付けていた。何処にも移動する事も出来ない彼女は、静かにその寒さを耐え忍んでいるのだ。そこには必死に生きようとしている命があった。
  思わず目頭が熱くなった。

 翌28日、天候はうって変わって快晴である。午前中、私は旅行疲れの体に鞭を打ち、牛舎の掃除をしていた。たっぷり溜まった糞を一輪車に積み込み、堆肥舎に捨てに行く。牛舎を出ると例のケヤキの木が右側に見える。私は思わず立ち止まった。
  初産牛が、初産牛が、あの初産牛が、しっかりと立ち、こちらを見ているではないか。
  その場に一輪者を放置し、胸の高鳴りを抑えて、私は母屋に走った。母屋にはお袋がいた。
  「なんか、牛が・・・。」
言葉にならないその私の様子に、お袋はすぐに分かったようだ。
  「うそ、どれ、どれ。」
と、すぐに牛舎に向かった。顔には、自然になんとも言えない笑みがこぼれている。今まで休憩する間も惜しみ、藁をひいたり、水や牧草を与えていたのはお袋なのだから、その嬉しさはまさにひとしおだろう。たまたま堆肥舎で作業をしていた親父もそれに気が付いたようで、
  「いやー、危ない、危ない。屠場に危なく積んでやるとこだった。」
と、声を弾ませていた。
  お袋はその様子をしっかり確かめると、今度は隣の家に向かった。源さんやトミエさんに知らせるためである。手伝いに来てくれだけでも有難いのに、親牛まで駄目にしてしまったと、かなりの責任を感じていたようだった。きっとこの吉報を自分のことのように喜んでくれるに違いない。

 3月29日
  月末になると、牛群検定と言って、1頭1頭の乳量や乳質などのサンプル採取が、検定員さん立合いのもとで行われる。その際に、前の検定日から今回の検定日までの約1ヶ月間の牛の売買や分娩、発情などの変更事項を伝えなければならない。もちろん、初産牛が分娩し、新たに搾乳牛として搾り始めているときも、新規登録する。
「じゃあ、引継ぎを始めます。新規いますか。」
検定員さんが尋ねる。
「はい、今回は二頭います。」と私。
「おお、いいねえ。では、固体識別番号。」
「えー、1207 08607 1です。」
「次に生年月日は。」「17年1月14日。」
「では、名号は。」
「名号ですか、名号は・・・、ミラクル・・・、うーん、ミラクール号でお願いします。」
奇跡の完全回復まで、もう少しである。
                                  終わり